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由緒と歴史
2008/09/09 14:26:39






妙見宮の歴史
西暦769年   称徳天皇の神護景雲三年(西暦769年)太政大臣法王弓削氏道鏡が皇位につくのが相応しいというお告げが出た。
それに疑問をもった朝廷が和気清麻呂公(以下、公)に勅命をだし、神のお告げが本当であるかを確かめる為、宇佐神宮へ行くよう命じた。
その結果、「道鏡は、皇位に相応しくない」というお告げが出た事を朝廷に報告すると、それに怒った道鏡は、公を鹿児島に追放しようとした。
その途中、豊前のすわえ田村に漂着した公は、道鏡の追っ手から足の筋を切られるが、数百頭の猪が公を助け、再度、宇佐神宮に詣り神告を受けた。
その神告に従い公は、現在の小倉北区湯川にあった霊泉につかると、たちどころに足の傷が治った。
そこで、公は、近くの足立山に登り、造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈った。
すると、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいる』という神託をうけた。
770年 光仁天皇が即位し、天皇家は、安泰となった。
また、道鏡は、下野国に流され、公は、平城の京に呼び戻された。
公は、四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建した。
772年 国司、大伴百世の助けで、葛原峰が坂の足立に下宮、足立山平癒寺を建立した。
817年 公の三男参議真網卿が、宇佐に勅使として参った帰り、下宮に清麻呂公と祖先の神霊を祀った。
853年 藤原良房(804〜872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進した。その他、大日不休息の仏像二体が、現在隣接する薬師堂にある。
947年 村上天皇の勅願所となった。
1174年〜1552年 古鏡が埋蔵される。
1520年ごろ 後柏原天皇より「うら菊」の紋章を授かる
この紋章は、全国神社の紋章としては妙見宮だけのもの。この紋章は和気氏の流れ、和気明親が後柏原天皇(1501〜1526)から、和気氏の家紋として頂いた物である。従って和気氏と同じ流れの妙見宮の杜家が、これを神社の紋章として使用した物である。
1601年 下宮を現在の場所に移した。
細川忠興が、眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮下宮を現地に移して鎮祭した。 その際、日向から取り寄せた松を植樹している。
1795年 小倉藩五代藩主小笠原忠苗が足立山山頂の妙見神社に参拝したおり、家臣がお茶の用意にと同社の後ろを掘ったところ、古鏡が出土した。
出土した古鏡は、九面あり、湖州伝々の銘のある古鏡六面、流水飛鳥や梅鳥のある古鏡が三面である。
なお現在古鏡は、 市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)に寄託されている。
1827年 妙見宮の桜香神苑に秋山光彪の歌塚が建設され、現存している。
北九州市指定文化財
1870年頃 平癒寺を御祖(みおや)神社と改称する。
1945年 足立山妙見宮を再称、かつ、全国妙見総本宮と追称し、現在に至る。
1953年 妙見宮境内に津田三代吉、米谷勘吉両名の敬神的協力によって1929年に建設された「猪に乗る和気清麻呂公の銅像」は、1944年の銅鉄回収を受け除去され、そのままとなっていたが、再び、米谷勘吉、津田金治、山田一次氏らによって石像として改造され現在に至っている。
この記事のURL : http://www.myouken.or.jp/97029.html
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